考えたこと感じたこと、一通りまとめてみようと思う。 笑っているのが泣いているのかよくわからない120分が過ぎて、ここ数日、「シンゴジはよかった…」しか呟かないマンになっている。 私は作品性を考察したがるタイプのオタクなので、「ほとんどエヴァ」と評判の画面作りや、クライマックスの「はたらくくるま」、 311とのモチーフ的な関連性、劇伴の各シーン検証等々ディーテイルへのマニアックな評論は、別の識者の感想を求めていただきたい。以下、記事。 バリバリにネタバレなので留意の程を。

オタクは何故生きるのか

シン・ゴジラを見たとき、第一の感想は、「これはオタクの物語なのだ」ということだった。 「オタク」と呼ばれる人々には多々あれど、マニアックなことを仕事にしてしまう手合いの、 込み入った手合いの「オタク」は、およそ二通りに大別できる。 ひとつは「目の前の問題解決に命を掛けるエンジニアタイプ」。 もうひとつは「ヒーロー(または革命家)になりたい企画屋タイプ」。 前者は超難題を目の前に置かれた瞬間に目の色が変わるし、 後者は自分たちの技術ないしアイデアで変革を起こすことに人生を掛けている。 共通するのは、自分たちをモチベイトするために、外的な依存先を必要としない、という点だ。 シン・ゴジラは一貫してオタクによる、オタクのための、「オタクが勝利する」物語だった。 ゆえに、物語の推進力となるメロドラマが用意されなかったのは当然の帰結だったと思う。 「愛する人の為」、「家族の為」、「お国の為」といった「臭い」大義名分は出てこない――― 何故そんなものが必要なのかわからない、といったところか。だっていらないでしょ? 作中、共に死地に向かう自衛隊員たちに告げる、「君にも家族がいるだろうが」の台詞。 取って付けられたような鼓舞は、スパイスではあるが、本質ではない。 作中の自衛隊員が戦うのは、「お国」の為ではなく、彼らの自衛隊員という仕事、 「国民を守り戦う」夢の為であり、その夢を育むことを許し、支える、彼らの人生の為だ。 あくまでも個人の夢に立脚して、彼らは破滅に対峙することを選ぶ。 これを国粋主義的なプロバガンダ映画だ、と批判する向きは、 自分自身の視界が偏った政治性に染まっている事実を省みたほうが良い。 「スキ」を選んでも、孤独にはならない――― これは、個を全体性に同化させ、国家共同体に身を捧げさせる国粋主義とは本質的に異なる価値観だ。 自分自身の夢を追い、夢に生きることを知る者は、ナショナリズムだの家族だのに頼らずとも、 世界を愛することができる。そういう映画だと思う。

カヨコ・アン・パタースンがあまりにも安野モヨコだった

シン・ゴジラ。 壮大なるオタク賛歌にして、盛大な惚気だった。 これは明確にストーリーラインのネタバレだけれど、超ざっくりいうと 『頭の固い旧態然とした組織がゴジラによって焼き払われ』 『破滅を生き延びたオタクたちが、政府を牛耳って怪獣を倒す』 非常に無邪気な物語である。繰り返すけれど、これがプロバガンダに見えた向きは、 自分自身の視界が偏った政治性に染まっている事実を省みたほうが良い。 劇中、核使用回避という重大局面で、大きな役割を果たすのが、 石原さとみ演じる米国大統領特使、カヨコ・アンダースン。 このキャラクターが非常に既視感があるのだ。 筆者は「美人画報」全作と漫画たぶん全作?読破しているそこそこの安野モヨコ読者なのけれど。 踏まえて見ると、あそこだけ非常に安野モヨコキャラというか、せんせ御本人というか…… あの「私が大統領になったときに貴方が総理大臣になっていると都合が良い」(うろ覚え)発言。 いやいやいやいやいや、2人で世界を牛耳りましょう宣言だよ? すごい。スクリーンで嫁への愛を叫びおった。 「恋愛要素が無い」っていう人は絶対にわかってない。 監督不行届のカントク君の万歳ポーズが目に浮かぶよね。 あっ、あと矢口さん泉さんの友情……同僚? 描写もアツかったですが、 個人的な最萌はフランス大統領相手に丸一日粘った元農林水産大臣でった。 ああいう、部下を立てる仕事ができる人はとてもかっこいいと思う。良い。

  破滅に至る胎内回帰願望と、個を守るものとして、父性を生きること

00年代以降、オタク文化のメインストリームは、「少女」に自らの夢を背負わせてきた。 新世紀エヴァンゲリオンで渚カヲルのモデルとされた庵野監督の同輩、 イクニ監督が作った1クールアニメ、『ユリ熊嵐』は、女性性と男性性が鬩ぎ合う世界で 「スキ」を貫く少女たちが「壁を壊す」物語だった。 その数年前に社会現象となった『魔法少女まどか★マギカ』は、 希望、すなわち「スキ」を貫いた代償により深い絶望に落ちた魔法少女たちが、 少女性に象徴される人類愛によって救済される物語だった。 どちらも、同質性、全体主義的な社会に対峙してなお異端者であることを選ぶ人間、 すなわち「オタク」の在り方を少女に表象させた作品だったと、個人的には受け取っている。 シン・ゴジラの面白いところは、オタク男性の自分語りが、 回帰する羊水を求める少年の叫びではなく、外なる父性への反発ではなく、 内在する父性、男性性と、連帯を求める母性、双方を肯定する形で行われていることだ。 一方、登場する女性達も、「母性の表象」「性的消費の対象」としてのイコンではない。 それぞれの野望を、夢を生きてそこに立つ、あくまで対等な存在として描かれる。 これはポリティカルコネクトネスではなく、血肉を伴う変化だと思う。

 風立ちぬ2.0、あるいは『旧劇』の向こう側

これは同行者の評。 「俺が期待した『風立ちぬ』はこれだったんだよ! って人は一定数居ると思う」 私は「風立ちぬ」未見なので、この視点については軽く触れるに留める。 宮崎駿監督作品であり、が主演を勤めた「風立ちぬ」。 航空技術者としての夢に没頭する間に、運命の出会いと恋を経て結ばれた妻は結核で命を落とし、 多数の犠牲者を出して戦争が終わる。夢に現れたかつてのライバル・カプローニ伯爵は、 二郎のナルシスティックな自己憐憫を肯定するように、二郎が作った飛行機を褒め称える。 かつての「閉じた世界を生き、自身の美学にしがみ付く」オタク像。 庵野秀明の出世作、新世紀エヴァンゲリオンは、家族の断絶に苦しむ少年が、 訪れた世紀末たる破滅、あるいは新世紀としての福音に対峙し、挫折する物語だった。 無力感に苛まれる孤独な少年が望んだ破滅は、母性と混沌性の象徴、第2使徒リリスの姿を取って現れ、 やがては世界の全てを呑み込む。閉塞した社会と、全体性へ回帰する願望の行き着く果て。 最終的にその向こう側に一人、放り出された主人公・シンジは、 唯一の他者たる少女・アスカの「拒絶」によって洗礼を受け、ここで、物語は終わる。 その後、彼がいかにして大人になったのか。 同世代の少年たちの抱く停滞感を鏡写しに映像化してみせた「エヴァ」は、 社会現象となり、一時代を築き上げた。しかし、庵野氏は後に述解する。 「娯楽の域をこえてエヴァに依存するオタクには、もう何を言っても無駄な事が分かった」 シン・ゴジラは、エヴァンゲリオン以降の人生を「オタク」として駆け抜けた庵野氏が出した、 一つの答えだった、と自分は受け止める。 人間が人間である限り、破滅と福音は同時に現れる。 そのとき、一握りの人間の父性を頼み、個としての連帯を断念し、全体性に殉じれば、 訪れた破滅に呑まれるしかない。それは、『旧劇』で碇ゲンドウに掌握され、 母性に殉じた女性たる碇ユイの成れの果て、L.C.Cに呑みこまれる世界の姿に表象された。 しかし、現実。べたべたに依存的な終末観から放り出され、それでも異端として生きることを選んだ果てに、 人は気付くのは気付くのだ。 劇中において、矢口にとっての泉やカヨコらの同僚、「はぐれ者の集まり」として収集された 巨大不明生物特設災害対策本部の面々―――立場によって与えられたシーン数の差はあれど、 総勢328名にわたるキャストによって、「破滅と戦う人々」が描かれる。 あのとき彼らは一つだった。一として機能した。 しかしそれは、個を飲み込み磨り潰す壁の内側ではなく、個々の仕事、個々の人生あっての「全」だった。

オタクは孤独ではない。

新世紀エヴァンゲリオンのコミック版第一巻で、庵野秀明は 「これはシンジとミサト、『傷つくことが極端にこわい』ひとびとが居場所を得るまでの物語である」 というようなことを言っている。 喪男道、電波男、「夏の葬列」―――ネットカルチャーにおいて、 オタクは『いじめられっこ』『非リア』『非モテ』を標榜する人々が叫ぶ、自分たちの代名詞だった。 その命脈は今でも引き継がれ、メディアが喧伝する「オタク=犯罪者」像を反復するかように、 依存先を求め、「リアル」への憎悪を吐露し続ける人々がいる。 それはオタクカルチャーの一面ではあるが、全てではない。 TV版という「根暗な少年が自己肯定へと至る物語」を見たことにより、 「他者によって承認された」と誤認した人々がいた。 しかし、自己肯定と、承認する他者への依存。これは根本的に異なる。 僕が「娯楽」としてつくったものを、その域を越えて「依存の対象」とする人が多かった。 そういう人々を増長させたことに、責任をとりたかったんです(2012年、朝日新聞beインタビュー)―― 娯楽を「受け手が自己肯定するためのツール」と捉え、ゆえにエヴァンゲリオン・チルドレンに向けて 「現実へ帰れ」と叫んだ庵野秀明の立場は、実のところ一貫している。 人はときに、個としての「生」から逃避し、全体性の渦に逃げ込むことを望む。 そこから抜け出したかつての少年を待つのは、異なるそれぞれの人生を生きる同行者達だ。 新劇場版三作を経て、シン・ゴジラで庵野秀明が描いたのは、 異端のまま社会人として生き、自分自身の夢を通して世界と繋がる、 職業人としてのオタクの姿だった。 趣味や目の前に命題に拘るが故に、出世街道から放り出された面々が、「呉示羅」に殉じた鈴木博士の遺したクイズに挑み、自衛隊の面々は、政治抗争とは無関係に黙々と、敵対国家ではなく巨大生物からの「国家防衛」に励む。海外巨大情報産業のスーパーコンピューターの援護を取り付け、クライマックスでゴジラと戦う尖峰を切ったのはまさかの在来線無尽車両、そして完成したヤシオリ作戦で借り出されたのは、3.11での原発事故第一線を連想させる、国産ホイールローダーとタンク車の群れ。「これはわかるか?」「これは?」とばかりに散りばめられる、過去の特撮自身の作品からの、小ネタとオマージュ。ゲームデザイナーであり、現在はサブカルチャーレビューを手がける米光一成氏は、先のレビュー記事で「自分が鉄オタでなかったことを悔やんだ」と述べているが、「オタクであるほど楽しめる」と言えるだろう。 我々は、外なる母性にも、支配者としての父性にも頼むことなく、自分の世界を持つ事ができる。 愛する世界も、共に生きる人々も、自分自身に殉じればこそ手に入れられる。 この作品に関わる人々は、おそらく、その一端を、事実として受け止めてきたのだ。 「私は好きにした。お前達も好きにしろ」 そう、高らかに謳いあげる物語。 シン・ゴジラは紛れも無い、オタクの、オタクによる人生の肯定であり、人間賛歌だった。 少年よ神話になれ。

総括

“I love everyone in the world. I do. So help me God, I love you, all of you!” He was shouting. -The Beast That Shouted Love at the Heart of the World(Harlan Ellison) 「俺は愛している! この世界のすべてを!神に誓って愛している、お前達全てを!!!」

テーマ性も画面の緻密さもオタクっぽさも、何から何まで胸焼けするほど重いのに、 何故か明日も頑張ろう、と思える。よい作品でした。 見よう。そして劇場を出ながら「はたらくくるま」を歌おう。 暑苦しい文章になりましたが、以上です。いやー良かった…… 良かった。良かったです。見て。とにかく見て。